コラム

居留地にパイプオルガンがやってきた  ――パイプオルガンと横浜の街①――

2022年9月1日 (木)

 1871年に、明治維新後の日本で初めてパイプオルガンが建造された横浜では、現代も多くのパイプオルガンが奏でられています。
横浜みなとみらいホールでは、大ホールの顔として広く親しまれているパイプオルガン “Lucy” を中心に、 横浜市内のパイプオルガンをめぐるオルガン・フェスティヴァル事業「パイプオルガンと横浜の街」を2019年から 毎年開催してきました。
 4回目の開催を控え、フェリス女学院大学名誉教授の秋岡 陽先生に、パイプオルガンと横浜について2回にわたりご紹介いただきます。

 なお、2021年に開催した秋岡先生の「パイプオルガンと横浜の街2021」オープニング・レクチャーはYouTubeで 配信中。
 こちらもぜひ、ご覧ください。
 URL: https://www.youtube.com/watch?v=7i-yGkh0kso&t=7s


 今秋も「パイプオルガンと横浜の街」が開催されます。横浜市内の複数のパイプオルガンを繋ぐ、フェスティヴァル型の事業です。しかし、なぜ横浜はパイプオルガンの街なのでしょう。実は横浜は、明治以降の日本で、パイプオルガン導入の最も先進的な街だったのです。

明治初年の横浜港。外国からの蒸気船が、桟橋に次々「西洋」を運んできた。この絵とほぼ同時期の1871(明治4)年、横浜で最初のパイプオルガンが到着する。[図版:歌川(五雲亭)貞秀《横浜海岸之風景》横浜美術館蔵(齋藤龍氏寄贈)]
■パイプオルガンがやってきた
 幕末の開国・開港の後、流入する西洋の文物を受け入れる窓口になったのが横浜でした。横浜には、日本で最大規模の外国人居留地がつくられ、活気あふれるコスモポリスの様相を呈します。西洋の音楽も、東京(江戸)に先がけて、まず横浜で盛んに演奏され、聞かれるようになりました。
 1871(明治4)年の春、横浜港に1台のパイプオルガンを積んだ蒸気船が到着しました。明治期に、日本に設置された最初のパイプオルガンです。今から151年も前のこと。そんな早い時期にもうパイプオルガンが到着していたことに驚かされます。
 この楽器は、当時横浜に住んでいた外国人たちの教会である横浜クライスト・チャーチが、アメリカのJardine & Son社に発注したものでした。この教会は、現在は山手の丘の上にありますが、当時は山下町(居留地105番;中華街の朱雀門の近く)にありました。
 船に積むとき、オルガンは一度解体され、船荷到着後に、会堂内で再度組み上げられます。ところが大きな問題がおこりました。到着した楽器が大きすぎたのです。会堂内にうまく収まりません。さんざんてこずった末、やっと楽器のお披露目ができたのは夏のことでした。ただ、設置はできたものの、会堂の広さに見合わない大音量がときとして耳障りなほどだったそうです。
 どんな楽器だったのか聞いてみたいところですが、残念ながら1923年の関東大震災で、会堂とともに失われました。発注時の仕様書から楽器の規模を想像してみるほかありません。それは、手鍵盤2段とペダルをもつ、別表のようなパイプ構成の楽器でした。
 この楽器は外国人の教会に設置されたものでしたが、その設置・修理に携わったクレーンという人物のもとで、西川虎吉(寅吉)という日本人の技術者が育ったことは重要です。オルガン製作や調律の技術を習得した彼は、明治10年代に横浜で西川風琴製造所を創業します。日本のどの街より古くからオルガンと接してきた横浜。オルガン音楽はハマのDNAに組み込まれているともいえます。 
1871(明治4)年に設置された横浜1つめのパイプオルガン(横浜クライスト・チャーチ)の、発注時の仕様。アメリカ製(Jardine & Son社[New York])、手鍵盤2段+ペダル、19ストップの楽器だった。[図版:『Japan Weekly Mail』1870年6月18日号]
■2つめのパイプオルガン
 明治期の横浜で設置された2つめのパイプオルガンは、1890(明治23)に、横浜ユニオン・チャーチの旧会堂に設置されました。場所は大桟橋の近く、現在の横浜海岸教会がある場所(居留地167番)です。楽器はイギリスのConacher & Co.から購入した、手鍵盤2段とペダルをもつ、23ストップのオルガンでした。楽器の大きさは、1つめの横浜クライスト・チャーチのものよりいくぶん大きめです。会堂との相性もよく、響きも良好で、礼拝以外に音楽会でも使われました。
 この楽器も残念ながら、現存しません。1923年の震災で失われました。ただ、同じConacher & Co.が同時期に作った楽器が、近年、東京の日本基督教団本郷中央教会にアンティーク・オルガンとして設置されました ( http://hongochuo.org/organ/ )。ヴィクトリア朝の時代様式を伝えるその楽器は、かつて横浜にあった姉妹楽器の優雅な姿を彷彿させます。
 横浜ユニオン・チャーチも外国人教会でしたが、その会堂は、日本人教会である日本基督一致教会(のちに日本基督教会)の会堂としても使われました。外国人だけでなく、日本人にもパイプオルガンの存在を意識させたという意味で、この会堂の楽器は重要です。日本のどこよりも早く、パイプオルガンへの関心が呼び起こされた街が横浜でした。
1890(明治23)年に、横浜2つめのパイプオルガンが設置された横浜ユニオン・チャーチの旧会堂。[写真:E. Rothesay Miller『Sketch of the North Japan Mission』1901、p.19]
■明治期のパイプオルガン事情
 横浜で本格的な楽器の導入が始まったこの時期、東京のオルガン事情はどうだったでしょう? 明治期の東京では、1880年代に築地居留地の東京聖三一教会に1段鍵盤の小規模な楽器が導入された記録があり、1891(明治24)年に本郷中央会堂(現:本郷中央教会)でペダルつき大型リード・オルガンをパイプオルガンに改造した例が知られていますが、横浜のような本格的な楽器が導入されるのは大正期まで待たなければなりませんでした。
 一方横浜では、1906(明治39)年に、3つめのパイプオルガンがお目見えします。この年、横浜天主堂の名で知られたカトリック教会が山下町から山手の丘の上、現在のカトリック山手教会のある場所に移ります。新しい聖堂にはフランス製のパイプオルガンが設置されました。クライスト・チャーチやユニオン・チャーチの楽器ほど大きくはないものの、その音質は当時から高く評価された楽器でした。
 しかしこの楽器もまた、1923年の震災で、聖堂とともに失われることになります。明治期の横浜の3つの楽器は、すべて幻のオルガンになりました。しかし、楽器を身近に見聞きした記憶は消えません。日本のどの街より古くからオルガンと親しみ、オルガンを聴き、オルガンを弾いてきた街、それが横浜でした。
1906(明治39)年に山手のカトリック教会(横浜聖心聖堂)に設置された、横浜3つめのパイプオルガンは、フランス製、手鍵盤2段+ペダル、13ストップの楽器だった。[図版:『Japan Weekly Mail』1906年5月19日号]

文:秋岡 陽(フェリス女学院大学名誉教授)

コラム第2回はこちら

■パイプオルガンと横浜の街2022
 https://yokohama-minatomiraihall.jp/concert/pipeorgan2022.html

■横浜みなとみらいホール オルガン事業ラインアップ
 https://yokohama-minatomiraihall.jp/concert/2/